~明日は明日の風が吹く~…なんてね。
ご存知だろうか…否、知ってたらおかしいな。
どこの局だったかは覚えていないのだが、実は月曜から今日まで3日連続で14時から「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をやっていた。Part1~3まで1日1作。
言わずもがな、マイケル・J・フォックスとクリストファー・ロイド主演の名作SF映画。
デロリアンを改造したタイムマシンで、過去へ未来へと奔走するアレ。
全日制の学校に縛られない私故に、見る事が出来てしまったのである。
正直どれも3回くらいは観ているのだが、何度観てもやっぱりハマる。
観る度に私の見方が変わっていくのが原因だろう。
段々と英語のジョークを理解できるようになったりだとか、登場人物の小さな変化に気づけるようになったりだとかで。
Part2のマーティの上司の日本人の名前が「イトウ・フジツウ」だったのには笑わせてもらった。
多分日本語に直すと…「フジツウ イトウ」さんなんじゃないかな。
うん、多分「イトウ」がファーストネーム。
とんちんかんすぎて笑えた。
後、Part3の決闘シーンでの防弾チョッキ代わりの鉄板がクリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」のパロディである事も今回観て初めて知ったかも。
…よく見たらPart2の歴史が変わった1985年でビフが見ていた映画も「荒野の用心棒」っぽかったし。
極めつけは、やっぱりマーティやドクの心情の変化を読めるようになったところだけど。
3作ぶっ続けで見ると、わかりやすい。
「Chicken!」なんていう挑発にすぐ頭に血を昇らせていたマーティが、Part3の終盤では挑発を受け流せるようになっていたり(受け流してはいないか…でももう挑発には乗ってないよな、あれ)。
「未来を自分の目で見る事」に何だかんだで執着していたドクが、3のラストでジェニファーとマーティに告げた言葉「未来は君たち自身で作るんだ」。
この言葉には、思わずグッときた。
どんな未来が待っていようとも、きっと「今」をいかに生きていくかで未来はいくらでも変わっていくんだと思う。
人類の永遠の夢、タイムトラベル。
だけどそれは現実には存在しない「夢」のままであるからこそ、未来に対して不安を、そして同時に期待を抱けるのではないだろうか。
やり直しできない人生だからこそ、後悔もあれば楽しい思い出もあるのではないだろうか。
タイムトラベルが出来て過去も未来も全部思い通りなら、きっと人生つまらない。
失敗があるから、成功は輝く。
涙や悲しみがあるから、喜びも一層大きくなる。
私の過去も振り返りたくない、苦い経験も多い(不登校以外にも、色々と…)。
でもその苦い経験がなかったら、今の私はいなかったろう。
何度も転んで、泥まみれになって、地べたを這いずって。
それでもなお前へと進もうとするからこそ、人間は何かを学び、強く…そして優しくなれるのではないだろうか。
…映画を語るつもりが結局人生論。自分の文章の「癖」に嫌気がさすなァ。
まあいいや、今日はこれにて。
|////| ( )ノ |////| ウィーン(自動ドア
P.S.
マーティ役のマイケル・J・フォックスって身長163cmらしい。
なんだ、私とほとんど変わらん。むしろ私のほうが1cmくらい…以下略。
体が小さくても、あんなにカッコいい人もいるのか。
んー、憧れる。
どこの局だったかは覚えていないのだが、実は月曜から今日まで3日連続で14時から「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をやっていた。Part1~3まで1日1作。
言わずもがな、マイケル・J・フォックスとクリストファー・ロイド主演の名作SF映画。
デロリアンを改造したタイムマシンで、過去へ未来へと奔走するアレ。
全日制の学校に縛られない私故に、見る事が出来てしまったのである。
正直どれも3回くらいは観ているのだが、何度観てもやっぱりハマる。
観る度に私の見方が変わっていくのが原因だろう。
段々と英語のジョークを理解できるようになったりだとか、登場人物の小さな変化に気づけるようになったりだとかで。
Part2のマーティの上司の日本人の名前が「イトウ・フジツウ」だったのには笑わせてもらった。
多分日本語に直すと…「フジツウ イトウ」さんなんじゃないかな。
うん、多分「イトウ」がファーストネーム。
とんちんかんすぎて笑えた。
後、Part3の決闘シーンでの防弾チョッキ代わりの鉄板がクリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」のパロディである事も今回観て初めて知ったかも。
…よく見たらPart2の歴史が変わった1985年でビフが見ていた映画も「荒野の用心棒」っぽかったし。
極めつけは、やっぱりマーティやドクの心情の変化を読めるようになったところだけど。
3作ぶっ続けで見ると、わかりやすい。
「Chicken!」なんていう挑発にすぐ頭に血を昇らせていたマーティが、Part3の終盤では挑発を受け流せるようになっていたり(受け流してはいないか…でももう挑発には乗ってないよな、あれ)。
「未来を自分の目で見る事」に何だかんだで執着していたドクが、3のラストでジェニファーとマーティに告げた言葉「未来は君たち自身で作るんだ」。
この言葉には、思わずグッときた。
どんな未来が待っていようとも、きっと「今」をいかに生きていくかで未来はいくらでも変わっていくんだと思う。
人類の永遠の夢、タイムトラベル。
だけどそれは現実には存在しない「夢」のままであるからこそ、未来に対して不安を、そして同時に期待を抱けるのではないだろうか。
やり直しできない人生だからこそ、後悔もあれば楽しい思い出もあるのではないだろうか。
タイムトラベルが出来て過去も未来も全部思い通りなら、きっと人生つまらない。
失敗があるから、成功は輝く。
涙や悲しみがあるから、喜びも一層大きくなる。
私の過去も振り返りたくない、苦い経験も多い(不登校以外にも、色々と…)。
でもその苦い経験がなかったら、今の私はいなかったろう。
何度も転んで、泥まみれになって、地べたを這いずって。
それでもなお前へと進もうとするからこそ、人間は何かを学び、強く…そして優しくなれるのではないだろうか。
…映画を語るつもりが結局人生論。自分の文章の「癖」に嫌気がさすなァ。
まあいいや、今日はこれにて。
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P.S.
マーティ役のマイケル・J・フォックスって身長163cmらしい。
なんだ、私とほとんど変わらん。むしろ私のほうが1cmくらい…以下略。
体が小さくても、あんなにカッコいい人もいるのか。
んー、憧れる。
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折角の良質なネタなのに腐らせてしまうのも勿体無いので、今更ではあるがGWの時の宮沢賢治童話村での賢治の文章に感じたものついて書き殴っておこうと思う。
彼の文章は、間違いなく生きている。
一言一句例外はなく、句読点からすらも呼気を感じた。
どうして彼はあれほどの表現技法を持っていたのだろうか。
どうすればあんなに作中に登場する動物が、虫達が、植物があんなに生き生きとするのだろう。
否、生き生きとしていたのはそれだけではない。
鉱石も夜空の星座も太陽も風も水も、とにかく全てが生きている。
生命の有無など関係なく、全ての存在が平等に、生き生きとしすぎている。
宮沢賢治と自分を同じ枠で括る事に躊躇いすら感じるが、私も一応こうやって文章を紡いでいる身。
そんな私から見た彼の文章は、あまりにも生き生きとしているものだった。
童話村の高所から景色を見下ろしながら、想像する。
賢治の目には、この木々の葉っぱの一枚一枚すらも人間と同じくらい生き生きとしているように見えたのだろうか。
彼の目に映る景色は、耳に入る音は、果たしてどれだけ生命に満ち溢れたものだったのだろう。
恐らくこれは、天賦の才能以外の何者でもない。
私がどれだけ真似ようとしても、到底無理。
水の流れる音が、風の吹く音がどうしてあんなにも生きていると思わせる書き方が出来るというのだ。
彼は自らの童話集の中で「自分の童話は自然から貰ったものだ」と語ったという。
凡人は気づきもしない自然の生命エネルギーの強さに賢治は気づき、それを彼独特の生き生きとした文体で綴ったというのか。
それだけではなく昨今騒がれている「エコ」にも通ずる部分すらあると最近になって再び高評価を受けるようになったとか。
彼は自然の声を、自然からの警告をあの時代に既に聞いていたのかもしれない。
「人は、生きる為には食べ物が必要である。
人の心もそれは同じであり、出来るなら一番新鮮な食べ物を一番美味しく調理したものを食べたい」
…これは、童話集の「序」に対する私なりの解釈なのだが。
人の心が欲する食べ物、それは芸術に他ならない。
しかしそれなら、賢治は短い生涯の中でどれだけの文学と云う名の「ご馳走」を残してくれた事だろう。
音楽好きだったりとか、完成した作品であっても何度も手を加えて改作してしまうとか、自分と賢治との共通点を見つけて思わずニヤリ。
うんうん、音楽っていいよね。音楽もきっと人の心の食べ物だ。
「完成した作品であっても…」っていう気持ちも、凄くよくわかる。
…私の場合はUSBに入れていた「駄文」が作品にあたるのだろうが。
このブログの記事は1日1回、頻度が高すぎて改作するヒマすらない。
自分が作ったものだと、いくらでもケチがつけられるというか。
3日前には満足した出来だったのに今日見たらツッコミ所満載だ、とかよくある話。
そして気の済むまで加筆しているうちに、気づいたら全然主旨の違った文章が出来上がっている。
もっとも、その作品ももう読まれる事もないので最近はからっきしだが。
読み手の居ない文章は、アナログの日記帳かメモ書きだけで十分。
今日はこれで。
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彼の文章は、間違いなく生きている。
一言一句例外はなく、句読点からすらも呼気を感じた。
どうして彼はあれほどの表現技法を持っていたのだろうか。
どうすればあんなに作中に登場する動物が、虫達が、植物があんなに生き生きとするのだろう。
否、生き生きとしていたのはそれだけではない。
鉱石も夜空の星座も太陽も風も水も、とにかく全てが生きている。
生命の有無など関係なく、全ての存在が平等に、生き生きとしすぎている。
宮沢賢治と自分を同じ枠で括る事に躊躇いすら感じるが、私も一応こうやって文章を紡いでいる身。
そんな私から見た彼の文章は、あまりにも生き生きとしているものだった。
童話村の高所から景色を見下ろしながら、想像する。
賢治の目には、この木々の葉っぱの一枚一枚すらも人間と同じくらい生き生きとしているように見えたのだろうか。
彼の目に映る景色は、耳に入る音は、果たしてどれだけ生命に満ち溢れたものだったのだろう。
恐らくこれは、天賦の才能以外の何者でもない。
私がどれだけ真似ようとしても、到底無理。
水の流れる音が、風の吹く音がどうしてあんなにも生きていると思わせる書き方が出来るというのだ。
彼は自らの童話集の中で「自分の童話は自然から貰ったものだ」と語ったという。
凡人は気づきもしない自然の生命エネルギーの強さに賢治は気づき、それを彼独特の生き生きとした文体で綴ったというのか。
それだけではなく昨今騒がれている「エコ」にも通ずる部分すらあると最近になって再び高評価を受けるようになったとか。
彼は自然の声を、自然からの警告をあの時代に既に聞いていたのかもしれない。
「人は、生きる為には食べ物が必要である。
人の心もそれは同じであり、出来るなら一番新鮮な食べ物を一番美味しく調理したものを食べたい」
…これは、童話集の「序」に対する私なりの解釈なのだが。
人の心が欲する食べ物、それは芸術に他ならない。
しかしそれなら、賢治は短い生涯の中でどれだけの文学と云う名の「ご馳走」を残してくれた事だろう。
音楽好きだったりとか、完成した作品であっても何度も手を加えて改作してしまうとか、自分と賢治との共通点を見つけて思わずニヤリ。
うんうん、音楽っていいよね。音楽もきっと人の心の食べ物だ。
「完成した作品であっても…」っていう気持ちも、凄くよくわかる。
…私の場合はUSBに入れていた「駄文」が作品にあたるのだろうが。
このブログの記事は1日1回、頻度が高すぎて改作するヒマすらない。
自分が作ったものだと、いくらでもケチがつけられるというか。
3日前には満足した出来だったのに今日見たらツッコミ所満載だ、とかよくある話。
そして気の済むまで加筆しているうちに、気づいたら全然主旨の違った文章が出来上がっている。
もっとも、その作品ももう読まれる事もないので最近はからっきしだが。
読み手の居ない文章は、アナログの日記帳かメモ書きだけで十分。
今日はこれで。
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暑かったり寒かったり…中間という選択肢はないのだろうか。
私服はこういう時、つくづく面倒である。
さて、先週木曜に視聴覚室に忍び込んだ私の記憶が正しければ、今週の木曜あたりが第一稿〆切だったか?
そろそろラストスパートをかけている頃かな、一応引退仕事になるし。
まあ悔いの残らないように全力でやってもらえれば、と思う。
そして7月部活引退してからは、いよいよ受験勉強にシフトして…。
…と私がここに書くとでも思った輩は、まだまだ甘い。
私のひねくれっぷりをまだ理解していないという事になる。
そんな甘ったれた事を私が今更書くハズがない。
スパートも何もない、全力で今を生きてほしい。
己の信ずるもの、あるいは目指すものを全力で掴みに行く、受験なんていうのはその手段の一つにすぎないのであろう。
今を生きる事、そして未来へ向かって歩いていく事を具体化したものが「大学受験」だと考えている。
私は、受験が近づいてもこのブログを休止するつもりはない。
むしろ前日に「さすがに緊張するねハハハ」とでも書く予定だ。
大体私がそんな性格であったとしたら、高卒認定前後だって更新を止めていたハズである。
前日にも平気で更新していたと思う、あの時も。
こうやって雑文を綴っているひと時は最早生活の一部、今更取りやめるつもりもさらさらない。
「受験勉強があるから」なんていう言い訳は、極力使いたくない。
否…「受験勉強」という言葉そのものが私は嫌いだ。
高校受験の頃も「受験勉強」とは絶対に私は口に出さなかったと思う。
学校で学習する知識の補完・発展にすぎない。
例外的に、普通学校では履修しないような専門的知識を要する資格取得の為に勉強するのは、受験勉強とも呼べるかもしれないが。
とにかく、「受験」という名目で普通の5教科を勉強する事自体本来は好かないのだ。
…今の私は好き嫌い言っていられる場合でもないのだが。
私は、今「高校で学ぶハズだった事」を学んでいる(事態が事態故に3教科だが…)。
そしてそいつらが一通り終わったら、それを補完・発展させていく。それだけの事だ。
己の知識、教養を深めていく。本来はそれが真意でありたいくらいだ。
常に学んでいく生き物、それが人間。
…こう書くと勉強バカのように見えるが。
要は「受験勉強だ」と張り切っているのを見ていると私にとっては「くだらない」のである。
何故入学するのに試験が必要なのか?
それはそれ相応の知識が入学後にも必要になるからだろう。
どうせ意気込むなら将来へと繋がる知識を吸収している事に喜びでも感じたほうがいいのではないか、という事。
「楽しむ」は、私も中々出来たものじゃないな。残念ながら。
勉強は、とてつもなくつまらん。
私は人の心を知るために。
その為に英語の論文も読まなければならないのだろうから英語を学び、統計も取らなければならないから数学を学ぶ。
現代文は論理的に文章を組み立てる為にも必要だろう…と、古典だけどうも意義を見出せないな。
………昔の人の心を知る、とでもしておくか。
紫式部の人格とか、清少納言の心情とか。…ははははは。
自分の「心理を学ぶ」という目的の為の「通り道」だと捉えている。
「勉強は生きる為の手段にすぎない。学者でもない限りそれに焦点を当てすぎるのもよくない」と前々教頭が言ってた。
ちょいと、文章に焦りが出てるな。
自分で書いてても支離滅裂で何が言いたいのかわからん。
身の上話で締めるか。
合格力判定なんたら模試の結果が帰ってきた。
国語の長文だけオールグリーン、正答率100%。
ここで日々文章と戯れていた成果か。
その他は真っ赤ですけれども。
そして新担任助手との衝突、やっぱり必至な気がしてきた。
…それで焦ってるんだけど。
何を言われても気にしなければいいんだろうが、どうも右から左へ人の言葉を受け流せる性格じゃないらしいんだよなぁ。
病気とやる気のボーダーラインに揺れる。我ながら情けない。
無気力で動けなくなるのは多分「うつ」なんだろうが、勉強する気力が起こらず動けなくなるのはうつか、あるいはただの怠け癖か。
うだうだすぎて申し訳ない、なんか今日は駄文の調子悪いな。
とりあえず今日はこれで。
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私服はこういう時、つくづく面倒である。
さて、先週木曜に視聴覚室に忍び込んだ私の記憶が正しければ、今週の木曜あたりが第一稿〆切だったか?
そろそろラストスパートをかけている頃かな、一応引退仕事になるし。
まあ悔いの残らないように全力でやってもらえれば、と思う。
そして7月部活引退してからは、いよいよ受験勉強にシフトして…。
…と私がここに書くとでも思った輩は、まだまだ甘い。
私のひねくれっぷりをまだ理解していないという事になる。
そんな甘ったれた事を私が今更書くハズがない。
スパートも何もない、全力で今を生きてほしい。
己の信ずるもの、あるいは目指すものを全力で掴みに行く、受験なんていうのはその手段の一つにすぎないのであろう。
今を生きる事、そして未来へ向かって歩いていく事を具体化したものが「大学受験」だと考えている。
私は、受験が近づいてもこのブログを休止するつもりはない。
むしろ前日に「さすがに緊張するねハハハ」とでも書く予定だ。
大体私がそんな性格であったとしたら、高卒認定前後だって更新を止めていたハズである。
前日にも平気で更新していたと思う、あの時も。
こうやって雑文を綴っているひと時は最早生活の一部、今更取りやめるつもりもさらさらない。
「受験勉強があるから」なんていう言い訳は、極力使いたくない。
否…「受験勉強」という言葉そのものが私は嫌いだ。
高校受験の頃も「受験勉強」とは絶対に私は口に出さなかったと思う。
学校で学習する知識の補完・発展にすぎない。
例外的に、普通学校では履修しないような専門的知識を要する資格取得の為に勉強するのは、受験勉強とも呼べるかもしれないが。
とにかく、「受験」という名目で普通の5教科を勉強する事自体本来は好かないのだ。
…今の私は好き嫌い言っていられる場合でもないのだが。
私は、今「高校で学ぶハズだった事」を学んでいる(事態が事態故に3教科だが…)。
そしてそいつらが一通り終わったら、それを補完・発展させていく。それだけの事だ。
己の知識、教養を深めていく。本来はそれが真意でありたいくらいだ。
常に学んでいく生き物、それが人間。
…こう書くと勉強バカのように見えるが。
要は「受験勉強だ」と張り切っているのを見ていると私にとっては「くだらない」のである。
何故入学するのに試験が必要なのか?
それはそれ相応の知識が入学後にも必要になるからだろう。
どうせ意気込むなら将来へと繋がる知識を吸収している事に喜びでも感じたほうがいいのではないか、という事。
「楽しむ」は、私も中々出来たものじゃないな。残念ながら。
勉強は、とてつもなくつまらん。
私は人の心を知るために。
その為に英語の論文も読まなければならないのだろうから英語を学び、統計も取らなければならないから数学を学ぶ。
現代文は論理的に文章を組み立てる為にも必要だろう…と、古典だけどうも意義を見出せないな。
………昔の人の心を知る、とでもしておくか。
紫式部の人格とか、清少納言の心情とか。…ははははは。
自分の「心理を学ぶ」という目的の為の「通り道」だと捉えている。
「勉強は生きる為の手段にすぎない。学者でもない限りそれに焦点を当てすぎるのもよくない」と前々教頭が言ってた。
ちょいと、文章に焦りが出てるな。
自分で書いてても支離滅裂で何が言いたいのかわからん。
身の上話で締めるか。
合格力判定なんたら模試の結果が帰ってきた。
国語の長文だけオールグリーン、正答率100%。
ここで日々文章と戯れていた成果か。
その他は真っ赤ですけれども。
そして新担任助手との衝突、やっぱり必至な気がしてきた。
…それで焦ってるんだけど。
何を言われても気にしなければいいんだろうが、どうも右から左へ人の言葉を受け流せる性格じゃないらしいんだよなぁ。
病気とやる気のボーダーラインに揺れる。我ながら情けない。
無気力で動けなくなるのは多分「うつ」なんだろうが、勉強する気力が起こらず動けなくなるのはうつか、あるいはただの怠け癖か。
うだうだすぎて申し訳ない、なんか今日は駄文の調子悪いな。
とりあえず今日はこれで。
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…は言わずもがな、「明日は明日の風が吹く」。
そして同時に「明日は私の風が吹く」。
another dayだもん。
これとは別に「克己」も座右の銘としていた時期があった。
残念ながらうつ改善とは相反する思想であり、現在では取り下げているつもりだが。
否…今も心のどこかでは生き続けているのかもしれない。
カタブツだから、無意識に。
東進の某担任助手と私で少し克己の意味の言い回しに違いがあるようなので、ここに書き留めておこうと思う。
(丁度一週間、ちょっと遅い気もするが…まあいいだろう)
私の思う「克己」とは、読んで字の如く『己に克つ』事。
自分の弱さを、打破する事。
欲望だとか、邪念だとか。
そんなものを、打ち破る力。
…小6の時の担任が、「克己」を信条とするやたらカッコいいおじさんだった。
寡黙で冷静なのに熱くて、普段は他人面してるくせに誰よりも生徒思いで。
なんかとにかくカッコいい人だった。
そんな彼の信条を真似ているうちに、私自身の信条、座右の銘となったのかもしれない。
否、多分そうなんだろう。
…しかしあの先生、「今年で定年」と私が小6の時からウソをつき続けて今年もまだ学校にいるらしい。
本当の年齢いくつなんだ、あの人…。ミステリアス。
2年前の「全てが真っ当でなくてはならない」という思想だった頃の私が持っていた克己心は、良くも悪しくも真っ直ぐすぎたのかもしれない。
そんな私が不登校という「真っ当ではない道」に踏み込んだ時、この克己心は酷い毒物だった。
己に打ち勝つ(この時には既に克つという感情ではなかった)という一心で、ひたすらに自分を攻め立てた。
「どうして真っ当ではない道に踏み込んだ?」「どうしてまだ抜け出せない?」と。
ここまで歪んでしまえば、これはもう克己でもなんでもない。
自己嫌悪、そして自己嫌悪、更に自己嫌悪。
うーん…思い出すだけでも痛々しい。
世間知らずの坊ちゃんだったんだなぁ。
いや、今でもそうなのだろうが。
不登校の1年を経て、そして人の心に否応なしに触れ続けた1年を経た、今の私は。
真っ当な正攻法だけじゃなくたって、生きていける。
高認を利用しての飛び級を決めた時の私を動かしていた感情、それは克己心なのではなかろうか。
常人が通らない棘の道を通ろうとも、過去の自分に打ち克とうじゃないか、と。
「真っ当な道」を再び外れる決心をしたのも、克己心だったらしい。
今では悲観的だった2年前の自分こそが、己に負けた姿だったのではないかと思う。
己に負けて卑屈な考えを持つことなく、己に打ち克って人生をより楽しく、よりよいものにしていく。
それこそが、今の私なりの「克己」か。
……書いていてたった今気づいた、今でも「克己」は私の中に生きているらしい。形こそ違えど。
いや、経験が死ぬ事はないのだろう。
どんなに昔の経験であっても、どんなに苦い経験であっても、形を変え姿を変えその人の心に生き続ける。
それが蓄積する事で「その人らしさ」が出るのだろう。
だからこそ、人間とは歳を増す毎に深みの出る生き物なのかもしれない。
それじゃ、どうにも人生論くさくなってきたので今日はこれくらいで。
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そして同時に「明日は私の風が吹く」。
another dayだもん。
これとは別に「克己」も座右の銘としていた時期があった。
残念ながらうつ改善とは相反する思想であり、現在では取り下げているつもりだが。
否…今も心のどこかでは生き続けているのかもしれない。
カタブツだから、無意識に。
東進の某担任助手と私で少し克己の意味の言い回しに違いがあるようなので、ここに書き留めておこうと思う。
(丁度一週間、ちょっと遅い気もするが…まあいいだろう)
私の思う「克己」とは、読んで字の如く『己に克つ』事。
自分の弱さを、打破する事。
欲望だとか、邪念だとか。
そんなものを、打ち破る力。
…小6の時の担任が、「克己」を信条とするやたらカッコいいおじさんだった。
寡黙で冷静なのに熱くて、普段は他人面してるくせに誰よりも生徒思いで。
なんかとにかくカッコいい人だった。
そんな彼の信条を真似ているうちに、私自身の信条、座右の銘となったのかもしれない。
否、多分そうなんだろう。
…しかしあの先生、「今年で定年」と私が小6の時からウソをつき続けて今年もまだ学校にいるらしい。
本当の年齢いくつなんだ、あの人…。ミステリアス。
2年前の「全てが真っ当でなくてはならない」という思想だった頃の私が持っていた克己心は、良くも悪しくも真っ直ぐすぎたのかもしれない。
そんな私が不登校という「真っ当ではない道」に踏み込んだ時、この克己心は酷い毒物だった。
己に打ち勝つ(この時には既に克つという感情ではなかった)という一心で、ひたすらに自分を攻め立てた。
「どうして真っ当ではない道に踏み込んだ?」「どうしてまだ抜け出せない?」と。
ここまで歪んでしまえば、これはもう克己でもなんでもない。
自己嫌悪、そして自己嫌悪、更に自己嫌悪。
うーん…思い出すだけでも痛々しい。
世間知らずの坊ちゃんだったんだなぁ。
いや、今でもそうなのだろうが。
不登校の1年を経て、そして人の心に否応なしに触れ続けた1年を経た、今の私は。
真っ当な正攻法だけじゃなくたって、生きていける。
高認を利用しての飛び級を決めた時の私を動かしていた感情、それは克己心なのではなかろうか。
常人が通らない棘の道を通ろうとも、過去の自分に打ち克とうじゃないか、と。
「真っ当な道」を再び外れる決心をしたのも、克己心だったらしい。
今では悲観的だった2年前の自分こそが、己に負けた姿だったのではないかと思う。
己に負けて卑屈な考えを持つことなく、己に打ち克って人生をより楽しく、よりよいものにしていく。
それこそが、今の私なりの「克己」か。
……書いていてたった今気づいた、今でも「克己」は私の中に生きているらしい。形こそ違えど。
いや、経験が死ぬ事はないのだろう。
どんなに昔の経験であっても、どんなに苦い経験であっても、形を変え姿を変えその人の心に生き続ける。
それが蓄積する事で「その人らしさ」が出るのだろう。
だからこそ、人間とは歳を増す毎に深みの出る生き物なのかもしれない。
それじゃ、どうにも人生論くさくなってきたので今日はこれくらいで。
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部員諸君は、朝早くからご苦労な事になっていたのだろうか。
まあ私には知る由も無いのだが。
前日も20時まで校舎に残りながら翌日も朝6時半だの7時半だのと、やはり随分ハードだ。
そしてタブロイド第一稿が11日…ね。
お疲れ様。
そんなハードなスケジュールすらも辞めた私としては羨ましかったりするのだが。
過去を振り返りながら生きる人、今を精一杯に生きる人、未来の自分の理想像に向かって生きる人。
こういう区分をした場合、私は間違いなく「過去を振り返りながら生きる人」にあたる。
かなり、引きずる。ずるずるずる。ずさー。
引きずって物思いにふけるレベルならいいだろうが、過去に囚われてはいけないな…と思っている。
まだ在学していた頃、保健室常駐の頃。
そうしていると、OB・OGに会う機会が頻繁にあった。
OB・OGの中には、結構足繁く母校に戻ってきていた人もいた。
そんな先輩達を見て、よく姉さんが「本当にこれでいいのだろうか」と言っていた。
頻繁に戻ってきて「あの頃はよかった…」なんて言われると、大学に馴染めていないのではないかと心配になる、と。
もっと「今」を楽しんで欲しい、と。
確かに私から見た彼らも、何故かどこか哀しく見えた。
新しい環境に未だ馴染めず、古巣に逃げ帰ってきているようにすら見えた。
多分ここまで来ると、「囚われている」に値するのかもしれない。
過去を引きずりすぎて、いつまでも新しい環境に馴染もうとしない事。あるいは馴染めない事。
そんな感じなのではなかろうか。
今の私は、果たしてどちらなのだろうか。
…そうだ、一昨日の記事で書き忘れ。
Gackt。
あのスタイルでまさか「みんなのうた」まで歌ってしまうのにも驚かされた。
「野に咲く花のように」。多分もう3~4年くらい前だと思うんだけど。
3月にこの曲を既に知っていたら…ヤバかったな。
卒業生泣かせの曲すぎる。
今年度のその時期になったら、ここにようつべから探してきて貼っておこうか。
皆この曲を聴いて涙するがよい。
野に咲いた花のように~♪
決して負けずに~強く咲きたい~♪
そして今日のMステにも出ていたGackt。流石です。
agehaすぎる。男なのに。
それでいて、カッコいい。
なんかもう凄すぎる。あんなに偏ったスタイルの人がこんなにマルチである事に、驚愕。
ガルネクの新曲とGacktで、私は大満足です。
それじゃ、今日はこれで。
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まあ私には知る由も無いのだが。
前日も20時まで校舎に残りながら翌日も朝6時半だの7時半だのと、やはり随分ハードだ。
そしてタブロイド第一稿が11日…ね。
お疲れ様。
そんなハードなスケジュールすらも辞めた私としては羨ましかったりするのだが。
過去を振り返りながら生きる人、今を精一杯に生きる人、未来の自分の理想像に向かって生きる人。
こういう区分をした場合、私は間違いなく「過去を振り返りながら生きる人」にあたる。
かなり、引きずる。ずるずるずる。ずさー。
引きずって物思いにふけるレベルならいいだろうが、過去に囚われてはいけないな…と思っている。
まだ在学していた頃、保健室常駐の頃。
そうしていると、OB・OGに会う機会が頻繁にあった。
OB・OGの中には、結構足繁く母校に戻ってきていた人もいた。
そんな先輩達を見て、よく姉さんが「本当にこれでいいのだろうか」と言っていた。
頻繁に戻ってきて「あの頃はよかった…」なんて言われると、大学に馴染めていないのではないかと心配になる、と。
もっと「今」を楽しんで欲しい、と。
確かに私から見た彼らも、何故かどこか哀しく見えた。
新しい環境に未だ馴染めず、古巣に逃げ帰ってきているようにすら見えた。
多分ここまで来ると、「囚われている」に値するのかもしれない。
過去を引きずりすぎて、いつまでも新しい環境に馴染もうとしない事。あるいは馴染めない事。
そんな感じなのではなかろうか。
今の私は、果たしてどちらなのだろうか。
…そうだ、一昨日の記事で書き忘れ。
Gackt。
あのスタイルでまさか「みんなのうた」まで歌ってしまうのにも驚かされた。
「野に咲く花のように」。多分もう3~4年くらい前だと思うんだけど。
3月にこの曲を既に知っていたら…ヤバかったな。
卒業生泣かせの曲すぎる。
今年度のその時期になったら、ここにようつべから探してきて貼っておこうか。
皆この曲を聴いて涙するがよい。
野に咲いた花のように~♪
決して負けずに~強く咲きたい~♪
そして今日のMステにも出ていたGackt。流石です。
agehaすぎる。男なのに。
それでいて、カッコいい。
なんかもう凄すぎる。あんなに偏ったスタイルの人がこんなにマルチである事に、驚愕。
ガルネクの新曲とGacktで、私は大満足です。
それじゃ、今日はこれで。
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プロフィール
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33
性別:
男性
誕生日:
1992/03/21
職業:
社会人
趣味:
日本文化に触れること
自己紹介:
不登校時代に「エターナルカオス」というゲームが大好きだった、とある平成生まれ。
現在は、どうにかこうにか社会人。
【座右の銘】
明日は明日の風が吹く
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